現在、執筆中の小説です。
少しずつでは御座いますが、順次公開していきたいと思います。

 

『表現芸術家ピアニストの生きざま』モデル:ピアニスト 杉谷昭子

昭和18年(1943年)2月25日、和歌山市榎原325、ともに教職員同士の親の元、一人娘として生を得た杉谷昭子。その生い立ちには戦火のすさまじい生きざまが心の奥深く刻まれているという。
1937年、ドイツのポーランド侵略開始、そのことが起因となって始まる第二次世界大戦。
歴史の大きな節目の時に誕生した彼女であった。
躍動する時代、島国で他国からの影響を受けず、むしろ交流を拒んできた日本、幕府の対外封鎖政策、鎖国令。ペルー来航まで二百十数年間続いた交流制限である。しかし、時の流れに逆らうことはできず、1867年、徳川幕府十五代将軍徳川慶喜は大政を奉還。時代は明治に変わり、流れは欧米思想、風俗、制度、文物などが積極的に取り入れられ、旧習の打破を狙う文明開化思潮、富国強兵、殖産産業政策推進。こういった思潮が膨らみ、朝鮮半島への侵略、その支配をめぐって清(中国)との間に起きた日清戦争、ここでも日本は黄海海戦に大勝し旅順、大連、威海街などを占領。このことによって、日本は帝国主義的政策の基盤を得る。勢いづいた日本、というより軍。幸か不幸か、体感による悦楽は一度味わうと重ねてそれを欲したくなるように、大勢は軍の強い影響によって第二次世界大戦突入、そして敗戦に至ることになる。
折りしも、その戦中期のことであった。

昭子の母、静子は寄せては引く陣痛の痛みに耐え、時折大きな深呼吸をしている。部屋が暖かいからなのか、痛みをこらえるせいからなのか、額にはいくつかの汗粒が浮き出ている。かれこれほぼ一日、の長い陣痛、産婆の顔にもいささか不安が過り始めていた。

「お医者様はまだかしら」祖母を横目に彼女は言う。

「ええ、いくらなんでももうそろそろ来られるはずですが……、娘は歳も歳ですし、初産ですから……。そのことも伝えてありますし……。」来られていて当然、という苛立ちとまだ来ぬ不安をにじませ、その返答をするとともに立ち上がり、待ちわびる医者はまだか……、と玄関につながる部屋の方へと出て行く。

玄関先。祖母はその姿がないことを確かめると外に出、つかの間遠く視線を凝らし、気を取り戻すと湯沸しのかまどに薪を足し添え産室に戻ってきた。「まだお医者様は来られそうにありません、娘は大丈夫でしょうか」

痛みに耐えかねうめき声を上げる静子。

祖母は静子の痛みを我が身に置きかえ、彼女の夫、文太夫への不満を独り言のように口にするのだった。「静子のお産を知りながら、なんで文太夫は台湾へなど行ったんでしょう、ほんとに……」

産気の頻度は高まり、静子の陣痛には鬼気迫るうめき声が伴ってきた。

七、八分も経っただろうか……。玄関の方から来訪者の呼び声。

「ごめんください」

男性の声である。

祖母はハッと頭(かしら)を持ち上げ、立ち上がり急いで玄関へと向かった。

「いらっしゃいませ。お医者様でいらっしゃいますよね」

「ええ、そうですが、途中軍隊とはちあわせ、少し遅れてますかね」

「お待ちしておりました。さっ、お上がり下さいませ」

速やかに産室に招き入れる。

彼は状態を把握し、祖母に言う。「難しそうですね……」と。しかし全く動揺する様子はない。むしろ泰然として言うのだった。「引き出さないと無理でしょう……」

投げかけられ産婆は言う。「そうですね、見てるほうが辛くなります。一時も早く産ましてあげたい」……。

二人の会話が済むと医師はすぐさまかばんの中から器具を取り出し、産婆は、たらいのお湯加減やタオルなどを整え万端の準備を終える。

医師の来駕がもう5分も遅れていれば自分と母の命はどうなっていたか、かん子分娩によるきわどい難産であった。

日中戦争の頃からくすぶり始め、真珠湾攻撃によって決定打となった日本国の第二次世界大戦への参戦。

奇襲攻撃による戦勝。その後、連合国軍イギリス東洋艦隊とマレーシア沖での対戦。大きな打撃を与え、イギリス・オランダなどの植民地支配下にあった東南アジアから南太平洋にかけ広大な地域を制圧。日本国民は緒戦の勝利に熱狂する。

しかし、その緒戦の勝利はヨーロッパでの宣戦に連合国軍、特にアメリカが枢軸国であるドイツを封じ込めるため、備えが手薄になっていたことによる。真に国力・軍需力による日本の勝利といえるものではなかった。

1942年(昭和17年)6月、そのことを示す戦いとして日米の海軍機動部隊同士が中部太平洋ミッドウェー島沖で戦い(ミッドウェー海戦)、日本は大敗北を舐む。これを転機にこの年の後半からアメリカの対日反抗作戦が本格化し、戦局は大きく転換し日本は苦戦に突入することになる。

その翌年、国状の逼迫情勢にある中、杉谷昭子女史は産声をあげ、東条内閣は事態の立てなおしに大東亜会議を開く。しかし、東条内閣にとってのその会議の目的は表向き「大東亜共栄圏」の結束、欧米列強の植民地支配からアジアを解放、という美名をかかげながら、その実、戦争遂行のための資材・労働力調達を目指すものであり、会議参加国、タイ・ビルマ・インド・フィリピンなどから反発を得るだけのものになる。

アメリカの反撃は強力で、1944年(昭和19年)7月、マリアナ諸島のサイパン島が陥落し、絶対国防圏の一角が崩壊する。つづいて、8月にはテニアンの戦いによってテニアン島が、グアムの戦によってグアム島が連合国軍に占領された。

このことによって、各島の基地から米軍B29爆撃機が直接日本本土に飛来し、本土空襲は激化する。

東京への無差別爆撃。引き続き川崎、横浜、名古屋、大阪へと広がってゆく。市街地は焼きつくされ、人々は恐怖のどん底に陥る。そしてその爆撃は地方都市へと移ってゆき、和歌山市も昭和20年1月9日の空襲を機に、終戦の前日までに十数回の爆撃を受ける。

昭子生誕の地、榎原も新日鉄住金和歌山製鉄所近隣に位置し、激しい空爆の余波を受ける。

1945年7月9日、21時過ぎ、空襲警報のサイレンが不気味に鳴る。ウーッ、ウーッ、...。途切れては鳴るその警報音。

寝つきにむずかる昭子をあやす母静子の胸にハッと不安が過る。近日何回となく体感していた警報音であったとは言え、静子は恐怖におののく。防空壕に身を隠す下準備が脳裏をかすめる。オムツに着替えの下着に懐中電灯に水筒への水。眠りについた昭子を見届け、母静子はそっと居間へと向かった。

ラジオのスイッチを入れる。雑音にかき乱されるアナウンスの声。受信つまみをつまみ操作する。

「…飛行機は紀の川より沖の裏に抜け北上...」

アナウンスに従うかのように空からの轟音は引き潮のごとくに消え行く。

一難去った静子は安堵し、昏睡する昭子の側へ添い寝にと布団へ入るのだが…そのつかの間のまどろみ、まさに死に際の水に等しきものだった。

朦朧とした意識、意識は覚醒するとともに喜びへと変わってゆき、親族や友人に囲まれたその中で、文太夫が静子の手にそっと指輪をはめ喝采の拍手があがる。突如拍手は強烈な爆音へと変わってゆき、静子は衝撃的に目覚める。ドッカーン、ドドドドドッ、シャシャー。外からの喧騒、ただならぬ不気味さがあった。身の危険を感じた静子は咄嗟に起き上り、眠っている昭子をすばやく抱きかかえ、速やかに後ろ回しに背負い、用意した手荷物をかかえ持ち、祖母に声がけし駆け足で防空壕へと向かった。轟く爆砕音。空に生えるその閃光。

 静子は迫り来る空襲の恐怖におびえ、ひたすら急ぐ。近づき、暗い防空壕入り口付近にうごめく人の姿。おもわず後ろに着いて来ている筈の祖母を顧みる。姿がない。立ち止まって暗闇の中に目をこらし、なめいるように探す。喘ぎながら来るその姿を見つける事が出来、ホッとして間もなく、防空壕の中へと入る。むさくるしさが漂い、おっかけ祖母も入って来るのだが、定員に満ちる所のようであった。というよりか満ちていたのかも知れない。

 静子は顔見知りでない隣の人に頼み込み、祖母を招き寄せ、祖母は息切れを沈めながらただ一言「怖い」とだけ静子に漏らしうずくまるのだった。

 爆撃のすざましさは地響きと共に聞こえてくる。壕の中、全ての人は黙りこくり、現実にならないことをただひたすら祈っているかのようだった。

しかし、とどまることなく近づいてくる爆撃。

静子はオンブしていた昭子が目を覚まし、泣きだしたのをなだめるかのように、胸に抱き包みあやす。さらに爆撃は近づいてき、その都度静子は緊張に身を引き締め、又緩め…と、突如物凄い激震にみまわれ叫び声があがり、壕の奥は壊れ、悲鳴の渦が沸き起り、子どもたちは泣き叫びパニック状態と化す。

 瞬時のその時が過ぎ、大人の意識は皆出口に注がれ、出口付近にいた静子と祖母は、一瞬脱出したものかどうか戸惑う。煙は蔓延し、その息苦しさから本能的に身の危険を察し、先にでた人の後に従う。幸いなことにこの爆撃が最後になったようで、攻撃機の轟音は瞬く間に遠のいてゆくのだった。

数日の後、この空襲のむごさ、凄惨で恐ろしかったこと。静子の友人は身をこわばらせながら、今起きたこと、とばかりのごとくに話し始めるのだった。

 「しずちゃん、あんたもわかると思うんやけど、飛行機の轟音がして、警報音が鳴って、寝床に入ったばかりの私らだったんだけど、避難を、と起きあがり、決めた所定の場所へと家を出たの。ところが瞬く間に飛行機は近づいてきて、バラバラバラバラ…、と爆弾を落とし、物凄い音、ヒュッヒュッ、と飛び散る破片、焼きつくような爆風がさっと吹き荒れ、一瞬頬が焼けるかと思ったの。上の子、お姉ちゃんの和子はその時、ガン、と破片が頭に当たって血が飛び散り、バタッと倒れ、そのまま...。」彼女は泣きじゃくり「だれがはじめ、なんで和子がこんな目に…」とただただふせぎ泣くのだった。

 昭子は2歳という幼少にありながら、この時、防空壕内での息苦しかったこと、今もなお心に焼き付いて離れない、というのだが。

この戦乱、国土は狭く資源の乏しい、それでいて優秀さを誇る日本人、おかれた国際情勢の中、指導層が持つ人間の煩悩。“戦争により戦争を養う”という実利と支配欲を満たす欲望に引きずられた思想によって起こされた大戦。敗戦か続戦か、苦悩している時期でもあった。しかし、一ヵ月後の8月6日、世界初原子爆弾の広島への投下。その3日後、長崎への投下と続き「私の身はどうなってもいい。国民が皆殺しになったのでは...」と天皇陛下の英断による玉音放送が流され終戦。

 文太夫の渡台をさかのぼれば、朝鮮半島の統治権をめぐり清国と起きた日清戦争、その戦勝によって日本が割譲を得た台湾統治につき同化政策がとられ、教育に占める比重には大きなものがあって、その一翼を担うべく日本人教師として、1942年(昭和17年)彼は台湾へ赴任。昭子生誕前年度の志願だったとは言え、静子にとって初産に、夫である文太夫が居ないことには心細さの混じる不満を募らせた時期もあった。そんな彼女を気遣わない文太夫ではなかったが、律儀な彼は私情を殺し、そして旅立ち終戦となって帰国する。

まだ見ぬ愛娘への初顔合わせ、楽しみに帰航上の人となるのだが、彼は蚊に刺されマラリアにかかり帰国と同時に隔離病棟に匿われることとなる。胸膨らませ、しかしすぐには会えない不憫さから、音楽好きな彼は自分の思いを託し、昭子にオルガンをプレゼントする。このことが後、彼女をピアニストへと導く大きな要因となるのだが、ピアノを初め努力をすれば誰もがなれる。そんな甘い世界でないことは言うまでもない。

 どんなに幅広くアカデミックな知識を身に付けたにしても才能のない者には望めない世界である。

 母静子にとって目に入れても痛くない愛娘。それだけに文太夫の気遣いを我が身のことのように喜ぶ。

 しかし、幼い昭子にとってすぐには扱えないオルガンである。それでも二人は、最も使用頻度のある居間に据え置くことを決めたのだった。

 ある日曜日、午前の事である。静子にとっていつもの休みにない気がかりな事があった。

 教員勤めをしていた彼女にとって、育児と家事を兼ね合わせる事の難しさから、日頃その大半を祖母にゆだねていた。しかし、親子とはいえ心根の優しい彼女、身のこなしにぎこちなさを交え始めた祖母への負担、気にせずにはおれず、休みになると出来る限り自分で家事をこなすよう心がけていた。

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